ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

過去の自分を罰しない

寝る前のお薬を飲むと、あんなに日中辛かったおなかの痛みが落ち着き、眠れた。
それまでの時間は、夫に胸を借りたり、気を紛らわせていた。

先祖の皆様には、ご成仏にあがってくださることと、私の痛みのように胃腸を患われた方のためにお水とお薬をあげて、「大丈夫ですからね、これで治りますからね。」という言葉をかけて、お参りをする。
亡くなった方は時間という概念がない世界にいくという。
こちらの都合もないし、向こうも「今!」ということでメッセージを投げてこられる。
でも受け取る私は、時間の流れの中で「今」に生きているわけで、いきなりいっぱい投げられても、しかも元気じゃないと受け止めることも無理で。

今の私の状況や意思を必死に伝える。
「こんなに痛みがひどい状態では、先祖供養しようと思ってもできない」
これは本音。
「ご成仏に上がってください。お楽になってください。私の応援をしてください。今を生きる私がよく生きることができるように、応援してください」
そして
「家系の理があったとしても、それを引き続く必要はないと思います。私はここで切りたいです」と宣言する。

===

家に母家からの仏さまを引き取ったこと、家系のあれこれを知り先祖供養に向けて整理したことで、おそらくダイレクトに私はいろんなものを受け取ることになった。
敏感な私には、なかなかに辛いことだ。

でもそのことは、私が手放せなかった思い込みに気づかせてくれることになった。(多分)

昨日までの1週間、胃腸の痛みがどんどんひどくなっていき、昨日かかりつけで一旦みていただき、診断と薬の処方があった。
正直なところ、あまり変わらない印象があったし、「死ぬのかも」と思った。
でもこのまま死んでも、辛いままは嫌だ。いつかは死ぬのだけど、ちょっと違うぞと。

ここ数日、自分の中からもメッセージがきている。昨日のは、ブログに書いた。

今朝は、朝から調子がよかった(悪くなかったw)。
痛みはある程度落ち着いている。ほっとする。
22時半に寝たからか一旦6時台に目が覚める。健康だ笑
ぼーっとできていると、体にもダメージがないんだなぁと思う。

歯磨きをして、仏壇にお供えをしてお参りして、黒糖ココアを飲む。
朝バナナというゼリー飲料を飲む。このくらいならいける。
黒糖ココアも朝バナナも、まあおいしい。
こういうのが「今」だなと思う。

息子を送り出して、ニットを洗ったりトイレを掃除したり。
調子が良い時にやれることを、やってみる。
今日はいい天気だ。

息子を送り出した夫も寝ていたので、私も体を休めるためにベッドに入る。
たいがい寝ているので眠気がなく、思考がぐるぐるする。
思考が動き出すと、胃腸が若干不穏になる。

思考が「!」というようなことを考えつく。過去のことを現在や未来につなげてしまうのだ。「ありえない!」と跳ね起きた。
本来なら、ここは「そう思ってるのね」と流すべきところだろう。
「まさか」「そうなったら」という不安になりかける。
でも少し冷静になってみる。
ありえないことだ。
ありえないことで、自分が不安になり、自分の身体を痛めつけるのは間違ってる。
そこまでは、今までも思ってた。

私はじゃあなにがしたいのか?
なんで私は幸せへの一歩を、もう祝福も許しも得てるのに踏み出せないのかというと、
私は過去の自分を責めることで、幸せへの一歩を踏み出そうとしていたのだ。
痛みを得ることで、何かに許しを乞うていた。
でも、自分の過去を罰したところで、その関係者も私すらも癒されない。
これで何か解決するのか?
しない。

それにはっとした。

じゃあ、私は「今」何をすれば?
と思った瞬間に、「夫に家族に感謝をする」という言葉にいきつく。

私のお腹を気遣い、寝ながらでもおなかに手を当ててくれる夫。
彼にわたしの思いをぶちまけてごめんねごめんねと言うのか?
そうではなくて、「今」私がどう思い感じているかは、「夫に家族に感謝をする」だ。
この言葉を思いついた時、胸がスーッとした。清浄な空気が流れる。
これなんだ。

「今を生きる」という言葉は、いろんなところで見聞きしてる。
「事実に対して、今、自分はどう感じているか」しかない。


やっとそのことに体感できた。

今、体調は悪くない。
もちろんこれだけ痛めつけてきたし、実際こんなに痛んできたので、検査はしっかり受ける。今日主治医のところに行き相談する。ここでは私の意思と思いをとりあえずぶつけてみる。
医療的にちゃんと事実を見ることを意思として伝えたい。聞き分けのいい子になって帰ってこないw

今更だけどね。でもここまでこないと私はそれに気づけなかったのかもだ。遅くはない。
昨日育子さんが「今日が一番若い日」と言っていたけど、ほんとだと思う。
気づきから新しい行動を始めたらそれが一番若い日なのだ。

今が一番楽しい

「高校生活に少し慣れてきた」という息子。
夕食中に「みんなは一番いつが楽しかった?」と聞く。

「高校時代が楽しかったってみんな言うよね~」と。

私は、一番というとどうなんだろうなぁと思い返すが、
辛かったことと楽しかったことを天秤にかけて考えると答えが出ない^^;

夫が「どれも全部楽しかった」という。
娘が「中学に入れば”小学校の時が”というし、高校に入れば”中学校の時が”っていうし、結局は今楽しいんよ~」という。

結局、「今が一番楽しいんやね~」と一致したw

こうして楽しい話をして笑ってる今が、一番楽しいね。
楽しいって幸せで、ギフトだ。


湧いてきた言葉

信じられるものは、自分の中からふと湧いてきた言葉や感情。

友人とメッセして、彼女から「小さな動きもあなたの幸せにつながっていると決めて、ちょっとずつ動いていこう」というような言葉をもらった。

ありがたい言葉だ。

決めるとか信じるってことは、私は実は苦手。
イメージがつきにくいからなんだろう。

でも自分の中にわいてきた思いや感情、言葉は、その湧いてくる過程ごとで私の中からあぶくのようにやってくるので、信じることができる。

「私の行動は、私の幸せにつながっている!」

あぶくはそう湧き上がってきた。

頑張らなきゃ幸せになれないと、思い込みすぎてきたな。
頑張らなくったって、信じて動いてきたことが幸せへの道のりで、つながっているのだよね。
信じるの難しいっても思って来たけど、実は自分を信じて生きてきたのだと思う。
そういう自分をまるっと認めるってことが、信じること決めること。


というか、「決まってることだよ!」というのもふと出てきたぞ。
やっと幸せになること、なっていいってGOが出たみたい💕
きいろちゃん、ありがとう。

長かった。

幸せになっていいんだ、私。
苦しみや頑張りと引き換えじゃなくてもいいんだ~。うれしい。



Happy日記0416

・お風呂の湯船に入ったら、はああ~と声が出た。
この一瞬が心地よい。

・娘に大切にとっておいたお宝テレカやバッグ等を、メルカリや金券ショップで換金できるように渡した。モノもことも整理整理。気持ちは幾分すっきりした。
娘は早速メルカリで出品したりしてた。いい人に渡りますように。

・夫が郵貯を整理してきてくれた。
昔、夫の名前で作っていた通帳がそのままになっていたので。今は本人じゃないと手続きが超面倒。動いてくれてありがたいな。

・先祖供養の仕方を詳しく教えていただく。
私はなにかと痛みや苦しみに同化しやすい傾向なようで(なんでこれがハッピーな方に向かわないのか不思議だ・・・)先祖の名前があれこれわかってきたところで、感じやすい私は同化傾向に。
お水とお薬をお供えした。5日間やってみる。
私の命をつないでくださったご先祖様にも楽になってもらいたいが、まず私が楽になりたいし、もしも先祖の家系的に問題があるとしても、そこは断ち切れるものがあるのではないかと信じたい。その思いもお伝え中。
スピだけにならぬよう、今生きている自分としての願いと祈りと行動を。
これも整理整理。通りがよくなりますよう。
やれることがあるということは、ありがたいことだ。

・家族が優しい。病院での検査を皆強く勧めてくれる。
実際もう半年も落ち着いてないし、ひどい症状で検査を受けた夫がそれで思っていたものと違う病気が発覚したので、まあ説得力がある。
明日病院に電話してみようと思う。


 

言葉と思いと行動のねじれ現象。

結局頭で考えたところで、自分のセンサーがしっかり働く状態じゃないと
自分の魂や心・体のメッセージは受け取りにくいのだなと
今更ながらに思っています。

ネガティブが出てきたら、そう思ってるんだなと受け流し、
ポジティブなイメージを待つ。
自分からイメージしてみる。
そういうことが、やっとできるようになってきました。

しかし!おなかが痛くなったり症状がでてきたら、そっちに気持ちも体力もいってしまうので、
体調が悪くない時に、若干びくびくしながらの自分も認めつつ(まだ大丈夫という成功体験がないので><)
薬コントロールもしながら、自分を痛めつけない=大切にする、
をできるだけ念頭において、上記のことをしています。

だけど、
「自分を痛めつけない=大切にする」

ここがどうも抜け落ちやすいみたいなんです。

自分を痛めつけることで私は私の生を実感しているのかなあとも思いますが、
もうこの方法は嫌です!辛すぎる。そして誰も幸せにしない。

「自分を楽にする、幸せにする、健康にする」
今はこの3本柱が基本です。

でもなんだかそれは本音なの?ということが自分の中にはあって。
上記3本柱は本音です。
(というか、今日これも絞って、「気楽に楽しく生きる」にしました。これで全部言えるかなと。以降「気楽に楽しく生きる」に統一っ!)

なんでしょう。
いい子な私がすぐ出てくるんです。聞き分けのいい子。
頭ではわかるし、そうなればみんなうまくいくし、美しいよねって思っちゃうんです。

こう書いていると、こうやればうまくいくじゃんというのはわかるのです。
頭ではわかるのです。素直にそうですよねといったんは理解するのです。
でもそれを体や心に落とし込もうとすると、矛盾が起こります。
だから、結果的に自分の書いた言葉が「美文」になってしまい、
行動と一致していないことはないのですが、なんだか乖離間を感じることがありました。
「なんだかかっこつけてるんじゃない?私」って。
最近その違和感が強くなって来てて。本当はどろどろの欲が満載なのに。
やりたくない変わりたくない抵抗が、行動を阻止するように動きます。
結果的に、言葉と(思い)と行動のねじれが起こる。


私は、体調を抜きにすれば、
子どもたちに自己肯定の場を作りたいというのが自分のやりたいことであり志です。
それはそれで本心です。
でも、私の 「気楽に楽しく生きる」が成就しないのであれば、
いくら他者に自己肯定の場を与え場づくりをしたって、
ものすごく遠回りで、そしてどこかで私自身がおいてけぼりになってしまう。
それがこれまででした。
だから、まずは言葉がイメージに近いのでぼんやりはしていますが、
「気楽に楽しく生きる」
とサンカルパ(とインドの言葉でいうそうです。「ねたまんまヨガ」の瞑想の中で出てくる決意や目標を設定する時の言葉です)
を唱えています。
※瞑想とイメージングをナビゲートしてもらえるので、このアプリには救われています。


自分の中にある力を信用できないことが続いていましたが、
20分ほどこのアプリの誘導でやっていくと、
自分の中から湧き出てくるポジティブな力を感じることもできます。
こういう、自覚できるものが、私が信用できるものなんですよね。
今おなかが痛くて固形物が入らない状態なので「食欲」という大きな五感がダウン中。
かつ寒気もひどいのですが、冷えている部分(恥骨、股、おなか)にカイロを張り、温めています。
ここが冷えているということは、私の生来の「愛されたい」「愛したい」がものすごく飢餓しているのかなと。

でも今はここまでやるので必死です 。胃腸が痛いんだもん。
全然気楽に生きれてない。。。
肩の荷を下ろすことをとにかくやってます。
(息子に、「苦労は半分背負わせろ、その分僕の幸せを半分背負え」と言われました。漫画であったのかもしれませんがw彼からのはっとさせられる言葉には救われます)

ということで、

脳は素直です。
口にした通りに、つじつまを合わせてくれます。
脳がそう感じたことを、人は行動します。
行動すれば、現実はそのようになります。
だからこそ、口にする言葉は私はとても大事にしています。

 

と、とも子先生がメルマガに書かれていた言葉。これいろんな方も言われているけど、
言葉だけではねじれるので、言葉=脳が思い感じたこと=行動となると通りがよいはず。

言葉「気楽に楽しく生きる」
行動「五感を感じられる、運動する、散歩する、瞑想する。気持ちのいいことをする。タブーを越える。自分を許す。いやなものはしない。考えない。」
目的「自分を信じる信頼する、自分に優しくなる、自分を愛する」

言葉と目的はごっちゃ感あるけど、
言葉には、切実に今こうなりたいと思うことを設定しました。
目的に書いたことは、言葉ではわかるけど、どうすればそうなれるのかわからないことを書いています。
行動をしているうちに、わかってきたり、変わってきたりするのかなと期待。


やれることはそんなに多くないのですが、
今日は母の見舞いにいかない選択をしました。家族に委ねます。タブーを越えるひとつです。
そんな自分を責めない。自分を愛する大切にするためのひとつです。母に会えば私はまた抱え込むから。
と言いつつ胸が痛いんですが。

(母はとっても調子がよく元気だったそう。よかった。)

そして、今日は上でも書いた「ねたまんまヨガ」のアプリで2時間以上の瞑想を。
普通に呼吸法だと以前書いたようにへぼい集中しかできない私でも、アプリでヨガのインストラクチャーさんからナビしてもらうと、体の緊張がほぐれ、イメージングができるのです。
今日は無料アプリを2つやった後に、
課金の43分くらいのものをDLしてやってみました。これがよかった。1回目は途中でうとうとしたので(睡眠アプリとしてとっても有名なだけある。みんな最後までたどり着けないらしいw)
2回目にトライしたけど、ちょっと感動。
安心感と幸せ感に包まれました。
そしてすっきり。

お腹はまだ痛いけど、しこりもぐりぐり動くけど、
頑張っておかゆと野菜スープを1杯ずつ食べました。
かぼちゃと新玉ねぎのトロトロスープを娘が作ってくれて。美味しかった。
行動(母の見舞いに行かない)=考えない・委ねる→無責任でいいじゃんまかせてもいいじゃんと脳が思う=気楽で楽しい
行動(美味しいものを食べる)=美味しい!幸せ!と脳が思う=気楽で楽しい

行動(瞑想をする)=からだの緊張がほぐれる、脳がお?体が楽だぞと思う=気楽で楽しい

で、ねじれてないよね?
脳が「思う」だけでなくて、「納得する」ってのもあるのかな。

※最近書き記すことが多いので、ハッピー日記はそれがない時にということで。

愛されたかった私

自分の中にたまっているものを掘り起こしてみると、
そこには母のおなかの中にいた時から持っていたであろうと思われる、
「私はここに居ていいのだろうか」という圧倒的な自己否定だった。

子どもの頃の話を娘や息子にしていた時に思い出した感情。
「私がおりこうでなければ、お母さんに迷惑かけちゃう」
「誰かに迷惑をかけることは、悪いことだ」
「迷惑をかける私は、存在価値がない」
という強烈な思い込み。

そういう思いを持っているのだろうと思いはしていたが、
ここまでだとは思わなかった。

事実、母親は子育てや結婚生活、夫の実家との折り合いにかなり苦労していたようだ。
だからこそ、私はそれを敏感に感じ取っていた。

だけど、私の自己否定感は、私の思い込みだ。

アルバムを見た。
なんと、私は愛されていた。
写真には、愛されていた私と愛してくれていた母が映っている。
こんなに愛してもらっていたのに。
母だけではない。おじいちゃんにもおばあちゃんにも、父にも、ひいばあちゃんにも、おばにもいろんな人たちにも、愛されていたのに。

勝手に思い込みで自分の人生を決め込んで、受け取れないのはバカだ。

私は貴重な確率で、母のおなかに宿り、父と母の子として生まれた。
愛される対象として。

息子が言う。
「もっと楽しいことを考えて好きなことをすればいいんだよ。」
「おかあちゃんがいなかったら、僕たちは生まれていないんだよ」
この言葉には重みがある。


私は愛されていた。
できれば「もっともっとぎゅーってして」って言えばよかった。
その分を私はこどもたちにしてやった(つもり)。

だけど肝心な自分がおいてけぼりだ。

愛されていた私を認めて、
愛されてないとひねくれていた私を許したい。
愛されないと決め込んでいた私を許したい。

愛されていいんだ。
迷惑かけてもいいんだ。
うまれたことを後悔しなくていいんだ。
逆に、私は生まれたことで家族にみんなに幸せをギフトしたのだ。

自分を罰しちゃだめだ。
心と身体を楽にすることが、私の心と身体が望んでいること。
肩の力を抜き、自分にやさしくすること。
自分にやさしくなれると、いろんなものとの関係がほぐれてゆく。
きっとそして自分らしさが、ふんわりとあふれてくる。

母から愛されていたと知った時、私は小さな子どもに戻って泣いた。
母のことを父のことを大好きだった私、それを大きな声で言うと迷惑をかけると思い込んでいた私を許そう。もういいんだと。

いや、愛に対する飢餓感はまだある。愛されたいは今でも大きい。
それもまんま認めて、私は私にやさしくする。


こんなにきついのに、志なんていってらんない。

愛されたい。幸せになりたい。気楽になりたい。健康になりたい。
抵抗する愚かな自分に降参。大いなる力に降参。




森を歩いて~息子との会話まで。

森に行きました。
一人で。
(家族に言うと「くまさんに出会った?」と聞かれましたが、出会いませんでしたw)

別の森に行くことを考えていたんだけど、そこはどうしても気持ちが向かなくて、行くなら気持ちが向く方にと、逆方向に。行くまでにちょっと距離があるように思うんだけど、それは勾配のある坂があるからなのでした。
うちも山なので、山から下りて山に上がる感じ。

一旦山を下りて、いつもの公園で寝っ転がって、花と若芽のまぶしい木を眺め、光りを感じて。

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この花、バターカップ(和名きんぽうげ)というんだって。
おともだちがアップしてくれていたので知りました。
大好きな花。
検索したら、なんと私の誕生日花でした。
フラワーエッセンスにもなっているらしいのだけど、これがまた今の私にぴったりというかなんというか。
ご縁というか、いろいろつながったり感じたりするな。

bercelesta.jp

この花は「自己尊重」がテーマです。

バターカップの花から放たれる明るい黄色い光は、人類に愛の優しいメッセージを伝えています。
このエッセンスは静かなサレンダー(降伏)という祝福のエネルギーを持っており、内なる子供を取り戻し、純潔と無垢が宿る自己の本質に気づかせます。
私たちがこの世に携えてきたギフトを呼びさまし、愛の認識を優しく促進し、魂に優しさと幸福をもたらします。

 

 昨日から「もう降伏だ」と思っていたんです。
何にかわからないけど、私はきっと変化にあらがって戦っていたんだと。
変わりたいといいながら、私の中の何かは変わることをとても恐れて、抵抗している感があって。
でも、それにもう疲れちゃったの。
変わらないために戦うことをやることに意味はない。
私は幸せに、もっと気楽に生きたくて、そして健康になりたいの。
それが本当に強い願いで、祈りにも近いくらいで。
私も私の中のものも「もう嫌だぁ~~~」と叫び始めてて。

私の中で変化が起こり始めている。
やっと新しい構築のための決壊が始まった。そんな感じです。

お腹は痛くてきつくて、動けない時もあるけど、それでも私は私の中のタブーを見て、それを壊すことを自分から始めました。
===

森の話に戻ります。

自然にふれることは、私の変化に大きなポイントのようです。
この数日間めっちゃきつくて、孤独感がハンパなくて。頭ではいろんなことわかっているはずなのに、自分を信じること、見えないものを信じることがいまいちできない。するともう孤独。痛いしきついし、それをわかってくれるのは誰もいない。その絶望感が余計にきつくて。

先生方からは、自然の中に入ること、動くこと、歩くことを勧められます。
公園にはお天気の日にはほぼ毎日行っていますが、森には、なかなか足が伸びませんでした。
でも今日はふと思い立ったんです。そちらに行こうと。
いつもの公園の先にそこはあります。

まだお腹は痛く、しこりもありました。(しこりは昨日泣いたら取れたのにまた出てきました。固くなったりなくなったりするので、私のどす黒い感情が形になりたがると固まるのだろうなと勝手に思っています。普通にしてるとまだまだ感情が上がってくるので、ヘドロのようなものがたまってるのかも。)

でも、この天気のうちに、昨日よりもお腹の調子はいいから、とちょっと頑張ってみることにしました。
気持ちが向く方には、少し背伸びすることも必要だと。

息子が卒業してまでも中学方面に行くなんて思ってなかったな~とか思いながら、中学を越し、坂を上って森の入り口に。
そこが森の入り口とは知らなかったので、入れなかったら引き返そうと思っていたくらい。でも森は割と簡単に門戸を開いてくれていました。

階段を大股で登って、ひとしきりしたら、ちょっと開けた場所が。
ベンチもあるような広場。
そこで、座って少したたずみました。

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私がここにきていることは誰も知らない。
もし私が急に具合が悪くなっても、助けはないんだな。などとネガティブなことが頭をよぎりますが、しらんぷり。
今日は薬も忘れてきてしまったので、レスキューもなし。
だけど、行きたかったんです。森に。
呼ばれるとかじゃなく、私がとにかく求めて行った。

木漏れ日と緑と木々で囲まれた空間で、そこに人は私しかいない。
鳥の声が聞こえて。
ちょっと圧倒された。
それに慌てた。

ベンチに座って、泣けるかなと思っていたけど、泣けなかった。
言葉も出なかった。
でも、絞り出すように私は私の思いを言葉にして告げた。
誰に?
神にだろうか?
答えはなかった。

でも、それが当たり前だと思った。
森にとって、私は関係ないものだ。
木々は、それぞれがそれぞれらしく生きていて、
森の中のものは、私のことを拒否もしなければ、仲間とも思っていない。
ただそこに在ることだけが事実なのだ、そう思った。

そしてそれは、悪くないと思った。

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ここで私は孤独感を感じることはなかった。
落ち葉を踏みしめる足は、気持ちよかったし、道がどこにつながっているのか、知りたくてたまらなかった。
途中途中の看板をみながら、なんとなく歩いていく。

四方が木。そんな中を一人で歩いたのは初めてだ。
森の中は意外と明るくて、遊歩道はさりげなく整備されている。歩道に見えない感じで。それがいい。
お友だちがこの森を整備するお手伝いをしていることが頭をよぎる。
彼とここに来たら、いろんなことが教えてもらえそうだw
森のことももっと知りたくなった。

途中で標識がある。こっちに行けば○○出口(元の入口)まで100m。こっちに行けば○○口まで450m。
俄然「当然450m、違う道でしょ!」と私らしさが全開になる。
久しぶりなはしゃぎっぷり。
楽しそうな方を選ぶ。面白そうな方を選ぶのはもともとの私の性格だ。
このところは、それが恐れにつぶされかけていた。

私は自由だった。
森の中での私は、嬉しくてたまらなかったのだろう。
もちろん怖さは持っていた。おなかは手放しでよくなっているわけではなかった。
でも、それを持っていても私は歩いていけるのだと知った。
明るい光りがあるならば、道は開けている。

別の出口方面に建物が見えて、ちょっと行ってみたり、
戻って先に出てみたり。
中ほどで方向感覚が効かなくなる場所もあって、お?と思っていたら、
耳慣れた中学のチャイムが聞こえてきて、妙な現実感にほっとしたり。
(中学のチャイムは、校歌が流れるのです。だから余計に現実感あり。)

家を出てからつくまで、1時間半。
時間だけでみれば、わりかし簡単に、森に行って帰ってきたというプチプチトリップ。
森からの帰り道、途中まで何やら森のエッセンスを持ち帰ってきた感覚がありました。
こだまかな?笑

いつもの公園に戻ると、なんか妙に人工的にみえる。
まあ自然の圧倒感が違うものね。

帰宅後。
すれ違いだとかもあったけど、
息子が予定外に早く帰ってきたので、彼が塾に行く小1時間ほど、ちょっとべったりとして、いろんな話をしました。
これはこういう設定になることは必然だったのかもと思う場の設定でした。

ほんとは、森で泣けなかった分泣かせてもらおうと思ってたんだけど、彼には「涙は嫌だ。笑ってる方がいい」と拒否られ笑、
それでも私は自分の中のタブーをひとつ壊しました。
「まだ高校生になったばかりの息子には心配かけるから言わない」と思っていたことを、彼の状況を確かめながら、受け止めてくれるようなので言いました。
私の今の状況や気持ち、私の小さな時の話や父の話、家族の話、先祖の話、いろんな話をしたけれど、
彼はこの受験期を経て、大人になっていたようで。
受け止めてくれただけでなく、こういう考え方をしてはどう?とアドバイスまでも。
妙に達観している。
なんでその達観的な見方が身についたのかを尋ねたのだけど、本人はわからないそうで。
でも、自分の中に在るものをやってみたいという気持ちに乗せてやった小さな成功体験で、自分はこれで生きていきたいというものを見つけられたってのが大きいみたい。

「僕は”産まれたい~”って強く思って神様にお願いしてビックバンが起こったの」とか不思議なことを言う子です笑 お釈迦様みたいだわ。
もう高校生なのに。
この子がお腹に出来た時「この子は私を助けてくれるためにやってきたんだな」と思ったことを思い出しました。

彼からいっぱい言葉をもらったけど、一番のヒットは
「おかあちゃんがいたから僕やお姉ちゃんが生まれたんだよ。お母ちゃんがいなかったら産まれていないんだよ」という言葉。
本当にそうだよね。

だから私は生きてていいんだな。とやっと思えた。

生きて来たから、こんなにかわいい子たちが産めて、こんな言葉を教えてもらえてる。
当たり前のことだけど、ものすごく大きな気づきで。
なあんだ。
居ていいんじゃん。生きてていいんじゃん。
私、自分を信用していいじゃん。やってきたこと悪くないんじゃん。って、思えた。
その幸せがものすごくしみたのでした。
息子、すごい。

森効果。
森に行かなければ、息子にそんな話をしようなんて思わなかったし。
いろんなことが、必然のように準備されていく。

それは私が動いているからだね。

見えないものがちょっとだけ信用できた信頼できた💕
嬉しい日だった。

お腹、今落ち着いてる。幸せ。
今日は明日弁当作らないでいいので夜更かし。
今日のことは言葉にしておきたかったので。
さて、寝る準備を。

今日も長い文章になりました。
おやすみなさい。

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