ほほーんと暮らしたい(再)

いつのまにか、言葉が出せなくなっている自分に気づきました。自分の中を整理するために、自分のLead the Selfを保つために、思ったことを自由に書きたいと思います。最近は私の体調(うつ病)や難病(ファブリ―病、大腿骨骨頭壊死)の夫との近況についてがほとんどです。

厳島での祈り+気づき②

miww55.hatenablog.com

この前の記事はこちら↑

厳島神社の本殿から出て、
海側に渡ったところにある境外の末社へ。
清盛神社。
この旅での私の一つのベンチマーク的な神社でした。

思ったより小さかったけれど、存在感がありました。

ここで須佐さんからのお言葉。
「千の祈りより、一つの自我」。
この言葉は清盛さまからのメッセージだとして、
一人ひとりその解釈は違うし、違っていいのだろう。
思いのままに生きていますかということを考えなさいということだと思う。
私の解釈は「お前は自分がどう生きると決めるのか」と問われているという意味に受け取った。
「祈ってばっかりいるけど、で、どうしたいの?何を決めるの?」って迫られているような…

結局ここでの祈りは、なんかしかっとしないものだった。
自分の中では祈りに自分の気持ちを綴り、間違いはないつもりでいるけど、祈ってるそばからなんか言葉が違う気がして、もやっとした。

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海側の道を歩く。
大鳥居は時間がないので今回は近くまで行けず。
フェリーの中の説明によると、この鳥居は海中に留められてはおらず、この鳥居の重さで立っているそう。ここにも賢人の知恵が。こういうところに私は妙に反応するw

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 さてさて、次は仏閣ゾーンに。大願寺へのお詣りです。
大きな大きな不動明王様にお詣り(不動明王様は撮影禁止だった~)。
不動明王さまは、大日如来さまがもっと庶民に近い存在として明王となられている姿。
本当は観音様なので優しい方らしいのだけど、「優しい顔ばかりしてても本音言わないでしょ」ってわざわざ憤怒の顔で現れてくださってるのだそう。

次に龍神様のところへ。
こちらの龍神様はブースっぽいところにいらっしゃる。大願寺の中央部分に自分の居場所をもってらっしゃる。なんだかこの周辺だけ空気感が違う。
そもそも水辺が近いからなのだろう。この下には水があふれている感じ。
このあたりはいろんな神様が混在されているが、それぞれが自然に在る感じが素敵だ。

f:id:miww55:20170113234705j:plainこの頃からもう何を祈ったり願ったりしたのかわからなくなってきているw
清盛神社で少しもやっとしたものの、龍神様にはストレートにお願いをしてきた。

そして本尊のべんざい天様のところに。もとは厳島神社にいらっしゃった
べんざいてん様が神仏分離令でこちらに来られたそう。薬師如来さまも本尊としていらっしゃる。
ここからは仏閣ブースで、人が多いため、ろうそくと線香を求め火をつけ祈るタイミングもあって、私の場所場所で書いていたメモも途切れがち。
べんざいてんさまは秘仏なので、お顔が見られず、残念。弘法大師さま作で八つの手があるものだそう。6月17日に行けば見れるそうですが、人が多いよねぇ(↼当たり前)
でもしっかりと、「私に女性としての仕事をちゃんとさせてください」と祈ってきました。
べんざいてん様が好きなのは、私にとって伝えたいことお願いしたいことが明確だからかもしれません。

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めらめらと燃える線香たち。護摩焚きではありませんが、いい感じだったのでパチリw

こちらは弘法大師様が開かれたお寺。弘法大師様もいらっしゃって、つくづくいい男だな~と思っていました(失礼ながらw)
とりあえずここで一旦おみくじを。
大吉!でもよくよく読むとそうでもないけれど、こう書いてありました。
「はじめは思うようにならないことも必ず成就します。いそがずあわてず信心しましょう」

ここまでで、結構頑張った感があったのだけど、ここからがディープゾーンらしい。
ということで、みんなでお茶休憩してから坂を上ります。
大聖院への道。こちらも弘法大師様が開かれたところだそう。
これまでが平地で結構道幅の広かったところを行っていたのに、
今度は山に向かっての坂道。川も流れていて風情があります。
でも今回は結構早歩きで歩くので、あまりのんびりな感じでもなく。
あ、でも途中で大きなお屋敷のお庭に白い花がぽつぽつと咲いているのを発見。梅かなぁ。春は見えないけどそこまで来ているのかな。

大きな仁王門をくぐり、あちこちの小さなこどもの羅漢さん??をみながら登っていきます。
可愛い子がたくさん!

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途中の鐘楼堂でひとりひとりゴーンと鐘つき。
いい音が響いて気持ちがよかった。鐘の音の振動ってすごい。体中に響きます。
ここでは、身体で感じろというか身体に落とすことが命題かな。

こちらのお寺は雰囲気的に修行中~という感じがします。
実際に修行が行われているのかわからないけど、宿坊的な。。。

十一面観音様にもお会いしました。お久し振りです。
両親が健在の頃はよく愛宕神社の十一面観音様にお詣りをしていましたので、
懐かしいという感じがいっぱいに広がりました。私の後ろの父親が反応?笑

こちらの観音様はお顔が人間っぽく、誰かに似ているなぁと思ったのです。お顔は出てくるのですが、どこで出会った方だったかな。

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こんな現代アート的なものもあちこちにあります。見方によっていろんな解釈ができる現代アートって、実は仏閣とも通じるものがあるのですね。私は現代アートについては理解がある方だと思っていたけど、この視点はなかった。新しい発見!

施無畏堂。せむいというのは、観世音菩薩さまの別称だそう。相手におそれを抱かせずに救うこと。観音さまはそういう優しい面をお持ちです。手前の金色の方よりも奥に観音様がいらっしゃいます。

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「人には"魔”というものがある。でも"魔”ってよくわからないよね。ここでは"魔”がよくわかりません。私にとって"魔”とは何でしょうか?と尋ねてみてください。自分がついやってしまうこと、払いたいこと、自己卑下とか…」
と須佐さんに促されながら、その通りに手を合わせながらつぶやきます。

この手の問答は、はじめは全く自分の中にこたえがなくても、仏様に伺いぶつぶついうことで、いろんな考えが降りてきます。
いや、降りてくるというよりも、自分の中にあるものに気づくことが多いのです。
仏様にぶつぶつと話をしながら、「私の”魔”ってこれだよな」とつくづく感じることがあります。そしてなんかそういえば、これもあったあれもあったとザクザクと出てくるw
魔は払うものもあるけれど、「そういう私ですが」とそのまま神仏にすがることもできる。すがったまま生きるということもできるんだというのも、なんとなくリアルな感じで受け止めることができます。

さて大詰め。
観音堂へ。(多分)
須佐さんが、「時間をかけて自分のペースで祈ってください」といわれます。
モヤモヤしていた思いもなんとなく収まっていたものの、再度こちらに来た思いと悩んでいること、モヤモヤした思いをそのままお伝えしながら、、、

ーーーここまでの途中の祈りの中で、自分のミッションやビジョンははっきりしていることは再確認できてました。
そこに至るまでに何をどうすればいいのかわからなくなってきて、それが今回の旅で一番お尋ねしたいことでもありました。

でも、ふと思いました。
「今の自分とミッション、ビジョンが明確であれば、どう行くべきかなんてあまりに気にしなくていいのではないか」と。
「後はよろしくお願いしますと、必ず自分はここに行くんだと思っていれば大丈夫じゃないか」と。

この気づきには、ちょっと雷に打たれたようなところがありました。
だって、私は自分を信じることができていなかったから。
一歩一歩ちゃんと固めていかないとてっぺんにたどり着けないと思っていたんです。
自分を信じることができなければ、この「間」をゆだねる事はできない訳です。だから、この考えがふと出てきた時には、驚きました。
「私は委ねてもいいやと思えるようになっている!!!」
これは驚きでした。

これまで私は自分というものが信じられなかった。
自分というより自分の身体に対しての大きな不信感があったのです。
頭ではわかっていたんです。自分を信じる事が大事だって。でもそれができないのは、自分のからだ(健康)に自信がなかったから。

いつも私の気持ちや目標を崩すのは私の健康でした。
でもそれは自分がそうしていることにも気づいていました。
だけど、どうすればいいのかがわからなかった。
だから何度も考えたし、何度もカウンセリングを受けたりしたけど、
自己否定は外れなかった。

でも、ここ1年の動きの中で、からだの悲鳴を受け止めて、自分を観ようと決めたのです。
動きの始まりは、丁度1年前の事でした。
1年前の成人式の日だから、ちょうど本当に1年前になります。
私は覚悟を決めました。というより、決めざるを得ませんでした。
「このままじゃ死ぬ」と感覚的に感じた、いや思ったという方が近い。
それで、この日丁度うかがっていた櫛田さんに、「お願いですから、とにかく健康をください」とそれは必死で祈りました。
すると、すぐに体の拒否反応は静まりました。
ここで私は初めて、神仏に必死に本心で頼むと聞いてくれることを知ります。
そして、そのことと、私自身が体を持つ人間で在り、この体とともに生きていくしかないんだということを体感的に知ることにもなりました(若干今思えばが入ってますが)。
それでもう覚悟を持って(というより、本能的に)自分を縛っていた社会のしがらみを一旦外し、会社を辞めることを決め(これは大変勇気のいる事でした。)、信仰によって自分の人生を見直す決意をした時でもありました。

今思えば、櫛田さんは清盛さまが通われた神社でした。
数年前、初めて行った巡禮記のお詣りが櫛田神社東長寺で、弘法大師様の話、清盛さまの話が満載のお詣りでした。
あれが始まりでした。ああこうしてつながってきたんだなぁとちょっと感慨深かった。

今、自分の自己否定がなくなったかというと、そこまではないのかもしれません。
でも、自分を愛でるということがちょっとだけわかってきたところでもあったのです。それは昨年ちょっとずつやってきた自分開きの成果かな。
ここにきて、ずとんとそれが決まった、ハマった感じです。ーーーー

ということで、ここでの気づきは、
「今の自分とミッション、ビジョンを固めて、あとは委ねること。自分に、神仏に、相手に、環境に。」
これは実は、仕事上でも出てきていて、わかっていたことでした。
私が今大切に思っている仕事は、本当に気づきの宝庫で、これは私のミッションやビジョンともつながっていることだから、直接的に出てくるのでしょう。
私にとってはとてもわかりやすい。これはすぐこんがらがる私のために、わかりやすくなってるんだわ。

観音堂では、ダライラマ14世が開眼したという東南アジア風なキラキラな弥勒菩薩さまがいらっしゃって、その方のお顔が、今回初めてご一緒させていただいたあいりさんのお顔に似ているなぁととても思ったのも、私にとってはなぜか印象深いできごと。

最後に愛染明王様へのお詣り。
愛染明王様は、神仏の中で唯一「だって好きになっちゃったんだもん」をOKとされる方。不倫や不貞を認めるというよりは、そういう枠で自分が開けないことの方が罪悪だと思われているのかなと感じます。
自分がタブーだと思っていることは、自分を鎖でしばること、自分を勝手に罰したり、自分が自由になること、自己愛を否定することにつながるような気がしています。
だからここでもブツブツとお詣り。
もしかしたら初告白かもと思ったけど、
でも、これも数年前の東長寺愛染明王様にはお詣りした記憶があって、多分この時の祈りと同じこと祈ってる、、はず。

さてやっと1クール、といったところで、おみくじ。
小吉です。
「このみくじにあうひとは、はじめ思いこと叶いにくく、急がず心静かに時を待てば
後には 神仏のご加護ありて 幸せの路開かれる」

その前に引いたおみくじと同じことだ。。

まだまだ道は途中なのね、と思いつつも、この道は正しいんだなと思えるだけでもありがたいと思ったことでした。うまくできてるー。

さて、帰路はまた自分の中でドラマがあったのですが、それはまた番外編で。
とりあえずは、これで厳島への祈りの旅は一旦終了。
お疲れ様でした、私。





















厳島での祈り①

厳島に行ってきました。
厳島が正式名称で、宮島は通称とWikiに書いてありました。行政区分は宮島町らしい。ちょっとややこしいw
広島駅からJRで30分ほどの宮島口から、フェリーで15分ほどで厳島に到着。
着いて厳島神社までの参道で圧倒的なのは、しゃもじと鹿!f:id:miww55:20170113164506j:plain

べんざいてん様いちきしまひめ様)が持つ琵琶の形を真似て作ったのが、この地で起こったしゃもじ産業の最初らしく、今でも木製のしゃもじの産地としては日本一だそう。ちなみにしゃもじは「杓子」と書くそうです。

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鹿はなんでこんなに多いのかわかりません笑

さて、今回の厳島への祈り旅。

2017年 巡禮記遠足 初春詣り 厳島神社|生まれてよかったね!を伝える。育む。【うずめ カフェ】ikukoのブログ

松本育子さん主催、須佐厳さんの先達で、行ってきました。
祈りは自分と自分の生活とつながっているもので、地元の神仏にお詣りをするのが基本部分でもあると思う一方、行きたいところには遠くても行って祈ることは必要だなと思う時期に来ていて、
そういう意味でも1月の3連休は動けるいいチャンスだったのです。

巡禮記の講話会でもとにかくよく話が出てくる平清盛様は、弘法大師様と並んで私の「今会いたい男性ベスト2」なんですよねw(ちなみに「今一番会いたい女性」はべんてん様(いちきしまひめ様))

厳島神社は清盛様が平安時代に、弘法大師様が開いたこの場所にべんざいてん様がいらっしゃるからという理由で、ここに宗像三女神をお迎えしたという場所。
須佐厳さんが言われるに「べんざいてん様という女性を守ろうとした、女性を守ることが世を納めるという、その力を示した施設」。


美しさに圧倒される。

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須佐さんはこうも言われていました。
「女の子はこの宮のように、大事にしてもらうこと。触りたくなるよう、いつでも普請(ケアってことね)してもらえるように。」
この宮は国宝だからということもあるけれど、日本全国からの腕の経つ宮大工が集まり知恵をしぼりながら作ったお宮。なにしろ海の上に浮く宮なのでメンテのこともかなり考えて作られたよう。潮の満ち引き、塩害への対処はかなり大変だろうに、普通のお宮さんと比べても壁や朱塗りの柱や梁は格段に綺麗。メンテにお金も手もかかっているのでしょう。

この言葉は前からも聞いていたけど、この場で聞くと、妙に心に響きます。

相似性という言葉が浮かびます。
レビィ=ストロースの野生の思考の考え方にも似ているし、私が常々やっているメタファーワークでいけば「私は宮だ」となる。

「この宮のようになる!と思うか羨ましいでとどまるか。
この宮であれば、どう普請して守られたいか考えればよい。
この世をおもしろくするには、女人を愛すればよい。(女人は)笑っておればよい。
でも、そうでなければよくない」

この言葉を聞いた後に、
改めてお詣りをしている中で、ふと沸き起こってきた感情がありました。

「私は愛されていいってこと?」

私は、「私は宮だ」と思ったことがありませんでした。
子宮は自分自身だ、宮だという話がネットにあがっていて、なるほどとは思いつつも
自分の中では、そこがなかなか納得できていなかったのかもしれません。
「私なんてメンテしてもらえる資格はない」とは思わないし、そういう言葉も使った記憶はないけど、似たようなことは思っていたのかもしれないなあって。


「わがままをいっちゃいけないと思ってきた」という思いも上がります。
「愛されるためには、わがままを言ってはいけない」。
私の中にそういう思い込みがあったことに、今更ながら気づきます。

私はこの日、私の先祖(主に祖父母・父、曾祖母、おじおば)を連れてきていました。(といっても私には何も見えないし聞こえませんが、意識的に”一緒に行こうね”と連れてきている感覚で。)
私が愛されるためにわがままを封じ込めたのは、自分の幼少期に起源があります(顕在意識下では)。
それでも一族の中では、私は父の次に”ふうけもん”だったようで、実際そういう風に言われていたので、私なりにかなり抑えていて。
でも実は「もっと求めたいのに、愛されたいのに、その言葉を飲み込んでいた、諦めていた。」のだなぁと気づきました。

この日の前に、大学時代の先輩にお会いしていたのですが、彼から旧姓を連呼され、かつ思い出話をしている中で、当時の自分の思いがうわぁと出ても来ていて。
大学時代も私は幼い頃と同じく、「もっと求めたいのに、愛されたいのに、その言葉を飲み込んでいた、諦めていた」自分がいたんだなぁって。

須佐さんに「昨日、旧姓を連呼されたんですよ~」って話をしたら、「なぜ今そういうことが起こったかだよね」なんて言われたけど、まあここに気づけって話ですよね。
このことは非常に納得しました。

厳島神社の中の大国神社

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ここでは須佐さんに「足りないもの」をお願いしてと投げかけられました。
ブツブツと神様にお話ししながら、結局ここでは「愛」でしたw
「愛をください。愛がほしいです」ってなんてベタなの??と思いながら。
それが本心なら仕方ない。

こちらには、道真さまもいらっしゃいました。「天神社」。
道真さまにおねがいすることは決まっていて、私は私のミッションを追求する仕事のためのお願い。
今の時期、太宰府天満宮に行けばほぼお詣りできないくらいごった返しているだろうから、ここでゆっくりお詣りできるのはラッキーでした。

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ここは勅使の方が登って来られたという太鼓橋。
高下駄でこれは無理よね~。

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狛犬さんのしっぽが不思議な感じです。

その②につづく。
厳島での祈り+気づき②はこちら↓

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建設的ではなく、面倒なこと

なんかこうね、いろんなお付き合いがあって、その中でコミュニケーションを図っているので現状の我々の世界ですが、めんどくさくないですか?

いや、実際にね楽しいことはあるのですよ。
で、同じテンションでやってると、そうじゃない人が出てきて。
特にSNSはやっかいですな。
ちょっと意見いうと、ガツンとかみついてくる人。その昔、仕事でいました。お局と言われていた人(まあそれはどうでもよい)。「そんなこと言ってできるわけないのよ。前もこういうことがあって。簡単に言わないでよ」みたいなことを編集会議で言われ。
いや、そんなこと知らないし。意見を言ってと言われたので言っただけで。
その時は編集長が、とりなしてくれたなぁ。
そうそう。とりなす人っていうのが必要で。

今回もかみつかれたので、戦う気力もメリットもないと思った私は、事情を説明し、「でも何も知らない私が出過ぎてしまったんですね。申し訳ありません。みなさんが不要と思われるのでしたら、取り下げます。申し訳ありませんでした」と、ぐーっと下がったら、ほかの方がとりなしてくださった。
もういいやと思ったけど、とりあえず準備をしてみた。

さっきのFBでも、学生の状況について憂いと悩みをやりとりしていたら、「こういうところで議論すること自体が彼らにとっては公開処刑のようなものである。」という意見の方が。意見はいろんなのがあると思うので、それ自体は想定内ではあるが、ただし、それだと学生を理解しようとする側と学生がいつまでも歩み寄れない。で、いいよいいよとばかりいって、ると妙なずぶずぶ関係に陥ってしまうのではないかと思ったりする。それは、私のやり方としては避けたいな。
目指すところは同じだと思うけれど、そのやり方が違えば、また動かない派からすると動く派である私のような若干過激な言葉も入れ込む形は、彼らの意図に反するのでかみつかれるのでしょうね。
難しいけど、これにも正解があるわけでもないような気がする。いろんな学生がいるし、アプローチの仕方は多様。アプローチの仕方を教員同士が共有して、学生に〇〇先生のとこに行ってみたら?と合いそうな学生を回すというのはありかもな。

まあこの手の議論は、人格までは攻撃されないので、そこは救われている。
後、その話しが建設的な話かどうかでも。。。建設的な話以外は、関係性はほぼ作らずにさらりと流す。時間ももったいない。

前者に書いた話は、部活の懇親会の話で。その懇親会が明日の夜。
数時間でサクッとお役目だけを終えて、帰ってきて飲みなおしだなー。

美味しいつまみを
あー近くにちょっと飲みに行ける女子友がいるといいのになぁ。
超忙しい子しか福岡おらんし。いけそうな子は関西関東。
ネットで飲み会かぁ。

なにかが動くのかな?

今日は、朝から福岡の小中学校のこどもたちを狙うという変質者?のツイッター事件で朝からもやもやとしていたけど、
まあそこに怒りというか正義感のエネルギーが湧き、
おかげでいろんなことがさばけた。

そもそも、そういう潮目に来ていたのかもしれなくて、
前の日にTODOを作っていたので、粛々と実行しておりました。
しゃかしゃかとはいかないけど、それでもほぼ完了。

TODOを作ることは有意義な生活の一歩であると認識したので、
※が、TODOのボリュームは要検討であるね。
明日のTODOも作っちゃった。

なんで今日はかどったかというと、
・新米のご飯を食べたから
いや~、これね、ほんとテンションあがる。
ゆーすけなんてどんぶりご飯2杯の後に、もう一杯玉子かけごはんに行ったからね。
・整理と掃除がちょこちょこ進んだから
ずっともやっとしてたのはこれなのよね。整理ができていない。ぐちゃっとしてる。
まずは必要必要じゃないの選択が必要だわ。

ちょこちょこ片付けて掃除していたら、「なんか動くかも」ってふと思っちゃいました。なにがどうなるかはわからないけど、不安はないな。
POPな感じがする。

そうそう、お片付けしてたら、封筒に入った〇万円に遭遇!
単に私が奥にしまい込んでただけなので、臨時収入でもなんでもないんだが~。

さ、年内にやるべきことは片付けよう。
これまでしようと思っていたLSPのこれまでの実績づくりとか、
夢チャレの振り返りのまとめとか。多分これが次の年に生きてくる気がする。

やろうやろうを、やるに変える。

七夕の願い

願いは、結構シンプルなのよね。

なにものでもない自分を、
しっかりとみつめて、
自分自身を心から愛せる私になりますように。

いや、愛せる私であることに気づけますように、かな。

私はきっと完全である。気づいていないだけなのよね。
こたえはわたしのなかにある。

The answer is inside of myself.

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鎮国寺に行ってみた②

さて、いよいよ本堂に。
本堂には、5つの仏さまが祭られています。
右から、如意輪観音、釈迦如来、真ん中に大日如来、その横に薬師如来阿弥陀如来と続きます。
仏様が衆民救済のため、神に姿を変えて現れたとする本地垂迹説があるらしいのです。神仏同体論というとわかりやすいですね。

如意輪観音=宗像五社の織幡明神の本地仏
釈迦如来宗像大社中津宮の御祭神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)の本地仏
大日如来宗像大社沖津宮の御祭神・田心姫神(たごりひめのかみ)の本地仏
薬師如来宗像大社辺津宮の御祭神・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の本地仏

阿弥陀如来=この一帯を支配していた一族の神、許斐(このみ)権現の本地仏

ここまでくると、神様や仏さまに本心でぶつかっていくしかありません。
自分が今日いろんな神様仏様に対してお詣りした時の思いが混在して、ぐちゃぐちゃになってきました。
正直なところ、自分の思いがWhyなのかHowなのかWhatなのかわからなくなっているところもあります。
でも私は幸せになりたいのだという思いは、変わらないのです。
やりたいことも変わらない。
捨てたいものもそう。
シンプルだけど、シンプルな言葉で参ると、アバウトにしかとらえてもらえそうになくて。参りながら、いやこの言葉ではないな、もっと具体的に、、と思いながら参ります。毎回のお詣りはこうしてぐちゃぐちゃとしたものになり、毎回時間がかかります。そして何を結局参ったのか、覚えてないような状態に^^;

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最後は、護摩堂へ。
不動明王様が祭られています。不動明王大日如来の化身とも脇侍とも言われているみたい。大日如来=天照大神と同一視もされているらしい。
今日の一日の締めくくり。

さっきと同じように、参りました。
問答のようになるのです。
私の願いは、、、とお願いをしていると、あれ、もっと具体的な直接的な言葉の方がいいなと思い、でも「これがほしい」というのでもない。こうでもないああでもないと思い返しながら、言葉を探していきます。神様の前で、自分を掘り下げているのかもしれません。
覚悟を持って神様の前に立ち、言葉を発しているはずなのに、自分の言葉に疑問が出てくる。これ自体は悪いことではなくて気づきなのでいいんだけど、神様が混乱されるかなぁ。

この文章を書きながら、で、結局私は何を望んでいるのか?と自問しながらお風呂に使っていました。
しあわせになりたいことも正しい。
そのために、自分を認めること、自分を肯定することをしたい。
結局これがなかなかできなくて、他のことをしていても芯からつながっていってないような状態に陥ってきて。
でも、正直なところ、自分を認めるとか自分を肯定することって、大変むずかしくて。
まずはそれを阻害する外的要因をはずそうとしたものの、あえなく今ストップがかかり。
じゃあ、今の状態の中で何をすればいいのか、考えあぐねて体調不良に至っている有様で。
まずは健康がなければ、この思考と行動をすることができないので、幸せになるために健康になりたい。健康をください!となる。

じゃあその先は?
自分が自分であることや、愛されたいということを素直に口にしたい。
でもきっとその対象者が今いないのかもしれない。
今頭に浮かぶ人は、私を否定する人だものなぁ。
じゃあもういいやってなってしまう。
これは自分が自分に対して思ってる姿なのか?

私自身がどんなことに感じてどんなことにひかれるのか、
今一度じっくり体感したい。。。というしめくくりで終わり。

いろんな人生それぞれな人たちとご一緒した、今回の宗像大社&鎮国寺ツアーでした。

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鎮国寺に行ってみた①

はーい。今度は鎮国寺。宗像大社から車で3,4分という感じの場所にあります。
鎮国寺は、弘法大師が大同元年(西紀806年)、唐より帰朝後、日本で最初に開閣せられた真言宗の最も古い寺院なのだそうで。
弘法大師と言えば、またまた出てくる私の父。
彼が亡くなった後にいたこのような方にお願いして、死後の父の話を聞いたのだけど、その一部「弘法大師様の杖にすがらせてもらおうと思うにも、手が上がらず捕まらせてもらえない」となく父。
あれからこちらでは30年ちょい経っていますが、そろそろすがらせてもらえているでしょうか?

弘法大師さまには東長寺でもお参りさせていただきました。

去年だっけ、夢で見たんです。そして言葉だけが残ってるので、携帯にメモってる。「弘法大師さまの権限権利を守るCMを作る」

はあっ?って感じでしょ? 何にも知らない私がなぜにそんなことを。権限権利ってなに? CMやさんでもないぞー。少しはやってはいたけど、コピーはかけない。

 

ま、そんな思いでまずは入口の仁王様方とお地蔵さまにご挨拶。
仁王さまは、門番的にいらっしゃるということもあるけど、お参りの方に、不動明王様にちゃんとこんなことをお願いに行くのです、そのために嘘をつかずにまいります、と私たちがここで準備をするためにおられるとのこと。いい加減な思いできているのなら「どんなことをかなえたいのか?」ここで思い出させる役なのかな。

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こちらのお手水は、竜の口から。そういえば入り口のお地蔵さん横のお水、おいしかった。地下水かな。お地蔵さんにお参りして、水筒に入れさせていただきました。

まずは大師堂へ。弘法大師さまの座姿の像があるところです。
弘法大師さま=空海さま。真言密教を日本に伝えた方として、中学社会でも習う方ですね。
一般に「大師」というと弘法大師様のことを指すようです。人間として生まれ、入定(生きたまま、座位の形で即身成仏する修行)し、仏様になられた方。衆生救済のためにと生きられ、種々の学問にも精通して学者のような方であったともいわれているそう。そして真名井御前という天皇の側室だった方を生涯愛されたという、人間らしいところもお持ちの方。
イケメンですよねぇ。
信念を持ち、強く、女性を愛ぬくそんな人と出会いたいなら、弘法大師さまの行脚姿を浮かべてお願いすることがいいとか。

次はぼけ封じ観音さま。

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若干その気がでてきつつある母のことを、祈りました。
こちらの観音様、とても美しいのです。やわらかくて。
ボケることは、本人にとって楽な道。どうせならかわいくぼけた方がいいし、
一気にぼけたい。これは私の願望でもあります。
ま、ボケる前に生をもっとまっとうしたいですけどね。

お隣の文殊堂。
文殊菩薩さまは、剣をもっていらっしゃる。
一般に文殊菩薩というと学問や知恵の神様と言われ、みな「知恵を授けてください。勉強できるようになりますように」と願うことが多いと思われますが、実は「あなたはちゃんと知恵を使い、願いをかなえようとしているのか」とその姿勢について覚悟を問われる神様のようです。
答えは自分の中にあることを認めず、外に知恵を求め欲しがるのは愚かなことかもしれない。そんなことを思いました。

お隣にある大きな木になぜかカニがよじ登っていました。
宗像大社にもカニが居たなぁ。沢ガニなのかな?

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